前回は荷電でしたので,今回は荷物列車の記録です.1973(昭和48)年頃の東海道線には九州方面へ上下6列車が設定されており,昼3本,夜行3本という状況でした.以下は1973年8月の時刻表から,東京口の荷物列車の抜粋です.
この中で朝のブルトレ撮影時にしばしば出会ったのは,東小倉発の急行荷30レでした.東海道線の荷物列車は蒸気暖房の関係で全てEF58の牽引で,冬は屋根から白い煙を吐いて疾走する姿が目を引きました.
さて,荷物列車が駅に着くと荷捌きの大騒動.とりわけ東海道・横須賀線で混雑する横浜駅では,ダイヤを乱さないためスピーディーな荷扱いを求められました.以下,横浜駅での郵便車の荷扱いの様子ですが,なんせASA100で日暮れ時の撮影なので,露出不足です.
8番線に残された大量の郵袋.この後,台車とエレベータにより,東口の横浜中央郵便局へと運ばれます.横須賀線は分離前で,貨物線が横浜駅構内をスルーしている様子がわかります.1972.11.11
停車時間の短い荷物列車の荷捌きはきわめて粗っぽく,現在の宅Q便CMのようにトキオのメンバーが荷物を大事に届けてくれるという取扱いは夢のよう.当時は鳶口のような手鉤(てかぎ)を荷物の縄に引っ掛けてホームに放り出す,荷物車内に投げ込むという力技が当たり前でした.
当時,郵便小包は大きさや重量制限があり,ちょっと大きいものは鉄道小荷物として駅に持ち込むしかありませんでした.郵政省同様,国鉄もお役所仕事の規定でがんじがらめで,荷物には十字に縄を掛け,荷札は2枚以上付けなければいけないなど,面倒な決まりがありました.祖母が横浜駅の小荷物扱い所に荷物を持ち込んだものの,掛員さんに「荷物を放り投げることがあるから,もっとしっかり縛って」と言われ,荷造りをやり直していたことが思い出されます.要はユーザーの利便性より,規則や梱包の頑丈性が優先された時代.やがて宅配便に取って代わられたのは必然だったでしょう.
荷物列車は宅配便業者の混載コンテナへと姿を代え,荷役と速達性が向上したシステムへと生まれ変わりました.でもホームでの荒っぽいが職人芸のような荷捌きの様子も懐かしく,もう一度見たい気がします.
(おわり)