現在の保土ヶ谷駅西側はマンションとレールセンターになっていますが昔は貨物駅があり,ガラスカレットや秩父鉄道のセメントホッパ車(相鉄・厚木駅行)とスム,コンテナなどが取り扱われており,DD12やDD13,相鉄のEDなどが入換をしておりました.国道1号線のバス停・西久保町から構内を横断する跨線橋があり,現在でも絶好の観察場所ですが,これを渡り切った少し横浜寄りに昔ながらの木造の信号てこ扱い所があって,貨物の入換作業を担当していました.
これは当時でもかなりの年代物で,ポイントの転換はすべて純機械的に行うため,建物下部からは鉄管が綺麗な幾何学模様を描き,構内を延々と走っていました.鉄管は要所要所でローラーで支えられているとはいえ,人がレバーで動かすため,遠方のポイントになると機械抵抗は半端ではなく,切換に大きな力が必要だったことは容易に想像されます.一方では,機構学の粋を尽くしたリンクやメカニカルインターロック機構など,現在では廃れてしまった技術が駆使されており,どうやって動くのだろうと興味を掻き立てられました.
さて転轍レバーは当時神田の交通博物館にも展示があり,雰囲気はわかっていたのですが,常々現物を見たく思っていました.昭和49(1974)年4月,国鉄がスト権ストを打ち,3日連続で高校が休校と相成ったので,早速自転車で保土ヶ谷へ出かけました.しかしスト中なので,当然列車は来るはずもありません.そこで信号所内の清掃作業をしていた職員さんに恐る恐る信号所内部の撮影をお願いすると,「あがって来なさい」と快く招き入れてくれました.
内部にはかなりの数の転轍レバーと木造の黒板のような照明軌道盤がありましたが,当時の高校生が見てもやはり年代物だと感じさせる設備でした.
5年後の昭和54年秋に横浜羽沢駅が開業すると保土ヶ谷駅での貨物取扱はなくなり,信号所の仕事も大幅に減ったため取り壊されたようです.いずれにしても,横浜の中心部にこのような旧型設備が当時まだ存在したいうことは,特筆されるべきでしょう.
現在,純機械式のポイント転換装置は,保線基地などで渡り線のポイントを2つ同時に切り換えるため,小規模なものが用いられているのみです.