筑波研究学園都市に引っ越し,横浜市民から桜村村民になったのが1983年.当時首都高三郷線・常磐道は建設中,TXなど夢のまた夢で,上野駅からローズピンクの交直流電車(赤電と略称.取手までの直流快速・エメラルドグリーンの青電と区別)に乗って,「土浦」一つ手前の「荒川沖」駅で下車し,関鉄バスで学園方面に向かうのが唯一の公共交通手段でした.ホームグラウンドだった東海道線と異なり,「常磐伊豆」以外には目にする機会がほとんどなかった交直流電車が新鮮に見え,5月の連休明けに早速常磐線初撮影を決め込みました.
当初,「荒川沖」という駅名がすごく不思議で,東京の荒川がこの辺りを流れているはずも無く,どうしてこのような名前なのか全くの謎でした.そこで郷土史誌などを調べると,1)その昔,霞ヶ浦や流入河川が氾濫すると,この辺りから下流が水につかり「荒野」になった,2)この荒れ地を遠く(沖に)見る場所,ということで「荒川沖」という地区名が出来たということでようやく納得した次第です.以下の写真は,「荒川沖」-「土浦」間の花室川付近での撮影です(1986(昭和51)年5月16日).
さて,さすが幹線だけにマルタイを観察する合間に,特急,急行,普通電車が結構な頻度でやってきます.何気なくシャッターを切っていただけなのですが,今となっては赤電,ボンネット,急行型など貴重な写真となりました.
この後,常磐線は415系の白青帯→ステン青帯となり,急行型は廃止,「ひたち」も651系「スーパーひたち」→E653「フレッシュひたち」→E657に変化していきます.荒川沖駅側線には日立セメントのプラントがあり,EF81に牽かれたホキがやってきて,移動機と共に入換を行っており,電車待ちの合間にホームから眺めていたこともありました.いつか写真を撮ろうと思っているうちに機会を失い,最近ではセメント貨物自体が廃止されたようで,実に残念なことをしました.
(おわり)